使琉球雑録

      1683年(清・康熙22年)、時に汪楫は翰林院検討を務め、琉球の冊封正使に任命され、命令により琉球に遣わされた。汪楫の著作『使琉球雑録』には、「……乙卯の針、四更、船、彭隹山に至り、単卯の針、十更、船、釣魚嶼を取らえ、又、乙卯の針、四更、船、黄尾嶼を取らえ、又、単卯の針、五更、船、赤嶼を取らえ、単卯の針、五更、船、枯米山を取らえ、又、乙卯の針、六更、船、馬歯山を取らえ、直ちに琉球に到る。」、「……何無く、遂に赤嶼に至り、未だに黄尾嶼は見えず。夕方郊を過ぎ〔或いは溝と言ふ〕……問ふに、‘郊’の義を何に取らんやと、曰く:中外の界なりと。」とある。文中の「郊」に見られる注は、福建方言の「郊」と「溝」が同音であることに所以する。この『使琉球雑録』の記載から、当時の福建地方の船大工等は明白に琉球トラフが中国と琉球の界だと回答していることが判明している。即ち、清の時代においては、中国と琉球の分界線が釣魚島より南のトラフであることが一つの航海常識として認識されていたのである。

使琉球雑録

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